かつては巨大な存在だった自分の親が、老化してどんどん弱く小さな存在になっていく。

昔は親にムカついたり恨んだりした時期もあったけど、だからといって「弱くなった今が復讐してやるチャンスだぜヒヒヒヒヒ」なんて1ミリも思わない自分がいるんだよな。

自分の中で「弱くなってしまったこの人たちを守りたい、守らなきゃならない」なんていう冷笑マンに冷笑されそうな気持ちが芽生えて、弱くなればなるほど守りたい気持ちが大きく育っていくなんて

自分で自分の心を客観的に見てくとあまりにも意外すぎて不思議だった。

ここに「個人的な問題は社会全体の問題でもある」という法則を当てはめると

これはもう「弱いものを守りたいというのも人間の本能のひとつなんだ」と認めざるをえなくなる。

「暴モ」も人間の本能なのは譲らないけどな。

でもやっぱり、そうやって「人間の本質は邪悪で暴モなのだ」などという「楽チンなほう」に「逃げる」のは「甘え」であると気づいてしまったからな。

考えてみれば当たり前なんだよ。

暴モも一面の真実ではあるが、人間の本能が暴モ“だけ”だったとしたら人類はとっくに頃しあいで滅んでたはずなんだよ。

暴モとは逆の「弱いものを守りたい」という本能もあったから人類はここまで繁栄できたんだ。

細かいこと言うとその「弱いものを守りたい」という本能を利用して戦争とかを正当化したりする手の込んだ暴モもあるからそれはそれでまた危険な面もあるんだけどな。

いろんな病気で体も弱って、認知症で幼児退行してる親を面倒見るのは、これ完全に、自分が幼児の頃に親にしてもらってた事をそのまんま立場逆転してるだけであって、

こんなふうに手をひいていろんな病院とか連れてくの、病弱だった子供時代の俺がこの人にしてもらってた事そのものをお返ししてるんだなあって

そう考えてたから、いろいろ苦労ではあるけど気持ちのうえではそれ自体はそんなに苦でもなかったな。

かつて何十年か前に頼りにしてた親から今は逆に頼りにされてるんだなっていう妙な感慨すらあった。

だから、つらかったのはそのこと自体じゃない。

そのこと自体はそれほどじゃなく、やっぱり社会ってのは弱者を守るようには出来てないんだなってことを身を持って実感させられたのがつらかったんだよ。

俺がしつこく「個人的な問題は社会全体の問題でもある」と繰り返してるのは、そういう意味なんだよ。

俺の場合は親戚とか御近所様とかの田舎ならではの互助があったからまだ救われたほうであって

現代社会はそういう助け合いのコミュニティを破壊するのを良しとしてるから、そんなのなくて孤立しちゃってる人がいっぱいいるんだろうな。

それ考えたら、「人はいずれ必ずタヒを迎えるのだから仕方ない」ってことで納得しようにも、納得しきれない。

この社会が「弱者は役に立たないから切り捨てろ」なんて方向に向かっているのはもう、暴モ“だけ”を唯一の人間の本能だとする世の中になってくわけで、

そんなのもう人類滅亡の未来しかないだろ。

人類が滅亡しないためには暴モ社会のほうこそ滅亡してもらわなきゃならない。

俺の個人的な体験を俺の個人的な体験だけで終わらせたくない。

なんとかしてもっと弱者に優しい社会を実現する方法は無いものだろうか?