https://adgjmptmptw.hateblo.jp/entry/2022/10/30/071000
ただし「アルセーヌルパンはモンキーパンチによる設定」だと思い込んでる奴はまだ少数派かもしれんが「ムーミンはカバ」に関しては「ムーミンはカバ」のほうが「一般常識」としてまかり通ってしまっているからかなり壁が高い。
これはルパンの話だったから共感が集まってるのであって、もし「ムーミンはカバではない」と言ったとしたら「ムーミンはカバではないと言い張る奴はバカ」としてネットじゅうの笑い物にされてたよ。
正しい教養がある人のほうが嘲笑を浴びて、間違ってるバカのほうが圧倒的に権威がある。
これが日本社会の現実なんだよ。
なぜかというと単純に「ムーミンはカバ」だと思ってるほうが圧倒的多数派だから。
この「ムーミンはカバ」の問題にぶち当たるたび、「そもそも民主主義は本当に絶対的に正しいのだろうか?」というより根源的な疑問を掘り下げたくなる。
民主主義は衆愚政治なのではないのか?
多数派が多数決で「ムーミンはカバ」と決定したら、「ムーミンはカバではない」という正解を言う少数派が迫害される。
「みんながカバだと言ってるんだからカバだ!それをカバじゃないと言い張る奴はテロリストだ!」となる。
また「ムーミンはカバではない」という正論を言うと一方で「お前なんかより私のほうがムーミンに詳しい!」と噛みついてくる奴が必ず現れる。
そういう輩は「ムーミンはカバ」と言うバカには何も言わず、「ムーミンはカバではない」という真実を言う側の人にのみ憎しみをぶつけるのだ。
なぜならば知識マウンティングを仕掛けるのが生き甲斐だから。
ところが俺はそもそもムーミンなんてべつに興味もなくて、原作は一切読んでないしアニメも殆ど覚えていない。
ムーミンはカバではないから「ムーミンはカバではない」と言ってるだけであって、「ムーミンはカバではない事を知ってる俺様はムーミンに詳しいから偉い」とかそんなことが言いたいわけではないのだが、
知識マウンティングが生き甲斐のタイプは人が何かを主張するときその動機は全て知識マウンティングの勝負を仕掛けたくて言ってるものとしか解釈できないから「その程度で俺に勝てるつもりかあ?」と噛みついてくるのだ。
そのタイプにとっては「ムーミンはカバ」のレベルのバカは余裕で勝てる可愛い存在であり、「ムーミンはカバ」のバカが多いほど自分のムーミン知識ランキング上位の地位が揺るがなくなるから、「ムーミンはカバ」と思ってるバカをむしろ守りたい、一生「ムーミンはカバ」と思っててほしいわけ。
正しい知識を持ってるのが自慢なら「ムーミンはカバ」と思ってる衆愚を啓蒙してやればいいのに絶対それをしないのは、世の中バカばかりのほうが自分にとって有利だからなんだよ。
だがムーミン自体には特にこだわりがない俺としては実際のところムーミンがカバだろうがカバじゃなかろうがどっちでもいいのだが
この「間違ってる側が多数派だと数の論理によって間違いであるにもかかわらず正しい事にされてしまう」という民主主義の欠陥が恐ろしいからどんだけ嘲笑を浴びようと「ムーミンはカバではない」と叫び続けなければならないんだよ。
これは「ムーミン」がテーマではないんだよ。
「反ファシズム」の問題なわけ。
ヒトラーもプーチンも民主的な選挙で正当に選ばれたリーダーなんだよ。
民主主義には「多数決によってファシズムを生み出してしまう」という欠陥があり、これをなんとかしないとヤバいわけなんだよ。
「たかがムーミン」ではない。
いや、ムーミンがカバかカバではないかは「たかがムーミン」の問題でしかないが、その「たかがムーミン」の問題が恐るべきファシズムに繋がりかねないから「たかが」ではないのだよ。
それをただの知識マウンティングの勝負だと勘違いしてる奴らも「たかが衆愚」だと思ってるからヤバいんだっての。
「自分はムーミンはカバではないという正しい知識を持ってるから、ムーミンはカバだと思ってるバカどもより偉い」と思い上がってて、「ムーミンはカバだと思ってる奴らのほうが圧倒的に多い」という事実が意味することの恐ろしさを甘く見ている。
世の中は正しいか間違ってるかではなく多数派か少数派かであり、多数派の言ってる事ならたとえ間違っていても「みんながそう言ってるから正しい」とされるんだよ。